2012年1月17日火曜日

「阪神・淡路大震災」私はバイク隊として救援物資を運んでいました。

本日で、「阪神・淡路大震災」から17年となります。
実は、1月17日は私達夫婦の結婚記念日でもあるのですが、あの日以来、記念日を祝うことはなくなりました。
あの時、私はボランティアのバイク隊として、被災地で救援物資を運んでいました。交通機関がストップし道路も破壊されていたので、機動性のあるバイクで、ヘリや船舶で集積拠点に持ち込まれた救援物資を各避難場所へと運んだのです。

当時の資料がないかネットで検索してみたところ、 非難中傷 の記事があまりにも多く、ビックリ。「バイク隊はガセネタで、実在していなかった」だの「バイク隊は売名目的だった」だの「訓練されていないバイク隊はただの野次馬、災害救助活動の妨げだった」等々、挙句の果ては「火事場泥棒や強姦魔」疑惑まで・・・
当時、当のバイク隊として活動していた私自身として、嘆かわしいやら腹が立つやら・・・

あのときの被災地の光景は、未だに鮮明に脳裏に焼きついています。
家にあったありったけの米で、家内におにぎりを作ってもらい、原付バイク5台で早朝に出発。しかし、そのおにぎりも途中に寄った公園などで着の身着のままで 避難されていた方々にお渡しして、現地に着くまでに全てなくなっていました。
被災地は、驚くほど静かでした。何一つ物音がしていなかったです。そんな中を、人々が整然と黙々と歩いていました。火事場泥棒なんて起こる雰囲気は全くありませんでした。
自動車は、延々と渋滞していました。しかし、誰も文句一つ言いません。ただ、私は当時まだ珍しかったモトローラー社製の携帯電話を持っていて、それが不思議と神戸でもつながり会話をしていると、「頼むから電話を使わせてほしい」ということで希望者が殺到して、バッテリーがなくなるまで使ってもらいました。
物資輸送は、原付バイクの後ろや足元に積んで運ぶのですが、それでもそんなに積めません。少しでも多くの物資を避難所に届けたいとの想いから、背中にも荷物を背負い、括る紐がなくてガムテープで体に固定して、着ていた一張羅の皮ジャンがダメになったメンバーもいました。

今から当時を振り返ると、ああいった過酷な状態の時にはその人の本性が出ると思います。
非常に寒くて空腹の中でのバイク隊のボランティア活動は、とてもではありませんがネットで言われているような売名目的や野次馬根性などで、できるものではありませんでした。ただただ、被災地の方々のお役に立ちたい、その想いだけでした。
疲れ切った体と心で、ボランティアから引き上げる途中、伊丹市まで来ると『吉野屋』が開いていて、その時に食べた暖かい牛丼の味は今でも忘れられません。
そんな、けなげで尊いボランティア活動を、非難中傷する輩は人間として最低だと思います。人々の暖かさに触れたこともなく、また、自分が他人のお役に立つ喜びも知らない可哀想な人たちだと思います。

それとは正反対に、当時の私達の取り組みや、昨年の「東日本大震災」におけるボランティアの方たちの取り組みを、正しく理解してくれて讃えてくれた文章がありましたので、紹介させていただきます。

【あの時、瓦牒に塞がれた道なき道を、救援物資を積んで走った青年部のバイク隊の雄姿に、皆が驚嘆した。いな感涙した。トラック等での輸送が難しい現実にあって、〝なんとかできないか”〝なんとかしたい”との真剣な願いが、勇気となり、智慧となって現れた尊き行動であった。(中略)
「人のために火を灯せば、自分の前も明るくなる」との古事がある。
最先端の脳科学の知見に寄れば、脳には共感を司る「ミラーニューロン」という神経細胞があり、目の前の人の喜怒哀楽を、自分の脳でも同じように感じる力が、人間には潜在的に具わっているという。
「自分のことを思っている人がいる」「自分が人の役に立っている」―被災された方も、献身の行動を続ける方も、共に相手の姿が、生き抜く力を呼び覚まし、心に希望の明かりを灯してくれる。
ボランティアとは、相手も自分も両方が元気になる尊き行動である。それはまた、相手のための行動がそのまま自分のためにもなっている一つの証しともいえよう。】

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