2011年12月31日土曜日

読書感想―「科学技術大国中国の真実」③

さて、この本の著者である伊佐進一氏は、文部科学省課長補佐や同省副大臣秘書官等を歴任されていたのですが、現在は退職をされています。
そして、何をやっているのかと言うと、なんと次期衆議院選挙での大阪6区の予定候補者なんです。

私は一昨年の参議院選挙の時に、当時、石川ひろたか候補としばらく同行させていただいたことがあるのですが、その時の率直な感想として「国会議員にするにはもったいないほどの、すごい人材を投入するんだ!」とびっくりしたものですが、今回の伊佐氏の立候補は更にその上を行く人選だと驚いております。
これからの国際社会の中での日本のとるべきスタンスなど、現時点で既にどの国会議員よりも明確なビジョンを持っており、更には若さと情熱を兼ね備えた人材だと確信しています。

先日、党の会合に参加するために大阪市内へ電車で向かったのですが、その車中でこの「科学技術大国中国の真実」を読みながらそんなことを考えていました。そして、会場に着くと、何と私の左前にその著者である伊佐氏本人がおられてびっくりしました。
本人を実際に目の当たりにすると、とても礼儀正しく、元気いっぱいの好青年でした。こんな青年に、是非、日本の将来を託したいと、素直に感じさせる魅力溢れる人物でした。

時期衆議院選挙に対しては、公明党として、この伊佐氏以外にも新進気鋭の若手2名と、前代表の太田氏や北がわ氏などのベテラン勢で挑む予定です。
どこに出しても恥ずかしくない、素晴らしい候補を揃えていただきました。日本の将来を考えるなら、このうち誰一人として落としてはならない方達ばかりです。

本年は東日本大震災に始まり、なにかと大きな課題が表面化した年だったと思います。
しかし、その一つ一つに対して、公明党は明確な方向性と、その道のエキスパートを揃えて挑んでまいります。その姿勢に対して、国民の皆様のご理解を勝ち取ることができれば、その全ての課題を必ずや大善へと転換していくことができると確信しております。
明年よりは、私達地方議員が先頭に立って現場に入っていき、徹底してこのことを語っていく決意です。

2011年12月28日水曜日

読書感想―「科学技術大国中国の真実」②

昨日に続いて、「科学技術大国 中国の真実」の感想です。
大きく次の3点について、なるほどと感心しました。


2009年の中国からの海外留学生総数は22万人を超え、帰国留学生数も10万人を超えており、いずれも10年前の1999年の10倍。
一方日本人留学生は減少しており、2009年は全体で7万5千人とピークの2004年の2割減。米国への留学生に至っては10年前に比べて4割減の約3万人となっているそうで、そうした状況を著者は以下のように語っています。

「拡散する中国、収縮する日本
海の向こう側に渡っていく中国人の増加は、政府主導による送り出し政策によるものだけではない。歴史に見られたように、さまざまな理由で多くの人が海を越えていった。特に沿岸部の中国人は、もともと大陸の外に出ていこうとする気質が強い。そうした気質がベースにあり、経済発展に伴って、さらに外への志向性を強くさせているとも言えるであろう。
翻って、日本はますます内向きになっている観がある。清華大学や北京大学といった中国の名門大学出身者が、どんどん海外に向かい、世界の舞台で大きく成長しているにもかかわらず、日本人は、あまり国外に出たがらなくなってしまった。
………
こうした、海外への一歩を踏み出す機会を逃している若者が多いのも事実である。それは、制度として用意されていないという問題ではなく、日本社会全体に漂う閉塞感、無力感が、敏感な若者の心に影響を与えていると見るべきである。日本全体が下を向いて歩き、お互いの足を引っ張り合っている時に、中国は「坂の上の雲」を見上げながら、一歩、一歩と成長を続けている。そうした異なる環境で育つ若者が、同じ世代であったとしても、異なる価値観や視野を持って行動するようになるのは、仕方のないことなのかもしれない。中国の若者が上を向いて外の世界に飛び出していき、日本の若者が国内の環境にとどまって身を守らざるを得ないのは、まさしく、こうした社会全体の雰囲気を反映しているからではないだろうか。」


中国の科学技術に関しては、研究者を大量に投入する必要のある「研究者集約型」の分野(高温超伝導技術や、バイオのiPS細胞研究など)において、中国は世界のトップランナーとなりつつあるそうです。
こうした分野では、日本において核となる技術的発見が行われたとしても、幅広い応用的研究が「研究者集約型」であるため、科学的業績や技術開発は、中国にどんどん水をあけられているそうです。
しかしまだ、ほとんどの科学技術分野においては、日本の方が中国に対して圧倒的に優位とのこと。ただし日本は科学技術投資が頭打ちとなっていて「投資と人」が不足しているので、新しい科学技術を産業化することが難しいとのこと。
それに対し中国は、政府主導で資源を配分できるので、科学技術に積極的で多大な投資を行い、その額は年々増加しているそうです。
こうした状況を踏まえて、著者の基本的な考えとしては、日本が中国に対して、いたずらに焦燥したり敵視したり、あるいは羨望したりしても仕方がない。現状認識と分業関係をしっかり整理した上で、日中関係をwin-winの関係として構築することが重要だと説いています。
具体的には、日本の先端的な科学技術を中国に提供する代わりに、あちらからの投資と人を呼び寄せる。そうすれば先の「研究者集約型」の分野などにおいて、日本にも多大な利益があるはずだと。すでに欧米諸国は、そういった考えのもと、中国の大学や研究機関と次々に連携関係を築いており、日本はやや遅れを取っている状況らしいです。


以上のように、技術開発において日本が中国と連携を深める必然性とともに、その際に留意するべき点として「標準化」をあげています。
日本は高い技術力を持っているが、しかしそれは独自な制度や慣習、および高い国民所得を前提とした「ガラパゴス的」な技術となっているため、中国においては、日本製よりも性能は低くても廉価であるサムスンなどの追撃を許している。
したがって、市場調査や的確な分析により、中国で本当に必要とされているのはどういう技術なのかという「市場ニーズ」を把握する必要がある。実際に、中国側が喉から手が出るほど欲しがっている「市場ニーズ」は少なくない。
日本は、高額の最高水準の技術を提供しようとするのではなく、こうした「市場ニーズ」に基づいた価格と技術レベルのバランス感覚を踏まえれば、十分それに対応できるとのことです。
更に、「標準化」された市場とは、均一化されたものを低価格で製造するというコスト競争の市場であり、特に中国においては中国企業の独壇場になることが考えられるので、標準化のため公開する技術と、秘匿化しておくコア技術の峻別も重要だと語っています。

2011年12月27日火曜日

読書感想―「科学技術大国中国の真実」①


この本は、在中国日本大使館一等書記官として三年間、北京の日本大使館に勤務をされていた伊佐進一氏による著作です。
一等書記官というのは、徹底して相手の国のことを調査する立場のようで、著者は東大の航空宇宙工学科卒で科学技術庁にてあの『はやぶさ』回収プロジェクトに献身した経緯から、昨今の中国の科学技術について調査されています。

「中国のGNPが日本を抜いた」「有人宇宙飛行を成功させた」「中国産のスーパーコンピュータが世界最速の演算速度を記録した」「中国の拡大する軍事力を懸念し、日本政府は次期主力戦闘機にステルス戦闘機F35を選定した」等々、断片的な報道により最近の中国の動向に脅威を感じるものの、その全体像やこれからの日中のあるべき方向性など、明確に指し示すことができる人はあまりいないと感じています。
そうした中で、この一等書記官を勤められた著者による本著は、近年の新書の傾向と異なり、はっきりした専門性の上に立って、一般にはほとんど知られていない科学技術、および中国におけるその発展について、非常にわかりやすく記述されています。
そして更には、今後の両国のあるべき関係について、明快に語っておられます。

「経済指標や軍事力が、現時点における国力を評価するものであるとすれば、科学技術力は、一〇年後、二〇年後の国力を左右するものである。私が中国に赴任を希望した理由は、一〇年後、二〇年後、中国がどのような国となっているかを知りたかったからである。中国の科学技術力というものを知ることによって、中国の将来を推し量ることができる。実際に現場を訪れ、目で見て、直接話を聞いて、楽観的にも悲観的にも偏らない、中国の科学技術力の真の姿を知りたかった。中国の強みも弱みも、肌で感じたうえで、中国の将来について結論を出したいと思った。そして、それに対して、日本がどうすべきかをじっくり考えてみようと思ったからである。
赴任していた三年間、何度も、「こんな国で科学技術が発展することなんてあり得ない」との思いに捕らわれた。また、何度も、「この国の発展の可能性はすどい」と驚かされた。いったい中国のどちらの姿を信じればいいのか、この両面をどう理解すればいいのかと、格闘した毎日であった。」(本文序章より)

次回から、本著の中で感じた所を紹介したいと思います。

2011年12月26日月曜日

小南新市長、元気に登庁




寒風吹きすさぶ中で行われた、池田市の市長選挙。
小南候補の勝利で、明けて本日、さっそく市役所に元気に登庁されて職務に励まれておりました。

今回の選挙戦を通してつくづく思うことは、倉田前市長も含めて、あの年代(60代)の方達ってなんて元気なんだろうということでした。
私も応援で何度か遊説にお供させていただいたのですが、あまりの寒さに体力を消耗し、かなり参ってしまいました。しかし、候補本人はフルに動いていたにもかかわらず、疲れるどころか日増しに元気になっていかれるのです。
今の60代、恐るべしです。

そういえば、先日見たNHKの特集で、最近は定年以降に新たに会社を起こされる起業家が多いという番組がありました。
それまで培った経験や技能を活かして、新しい発想で事業展開をされていました。しかもそれがかなりうまく行っているとのこと。
本来であれば、支えられる側になる方たちが、更に元気に現役世代以上に頑張っておられる。日本はまだまだ大丈夫だと思いました。
次の課題は、そうした活力をいかに次の世代に引き継いでいくか、そうした後継の育成だと言っていました。

私達若い世代の議員も、しっかりと実力をつけるべく、更に頑張っていかなくてはと、決意を新たにしました。

2011年12月7日水曜日

発想の転換――エネルギー問題

3・11以降、世論は一気に原子カエネルギー撤廃に傾き、2011年春には日本にあるすべての原子力発電所の運転が停止する可能性が高くなっています。
そうした中、西日本では、今冬0.4%、来夏8.3%の電力不足が生ずるとの見通しが示されています。
また、原子力発電所が再稼動しない場合には、夜間も電力供給を火力発電によって代替することが必要となり、そのすべてをLNG火力と石油火力でカバーした場合の追加的な燃料コストは3兆円を超えると試算されています。
つまり、原子力発電所の停止と稼働率低下による電力不足、それに伴う問題は、日本全体でいますぐに、かつ、中長期の視野をもって取り組まなければならない問題となっています。



石炭か風力か原子力かという議論に力点が置くだけでなく、エネルギー効率の劇的改善を真剣に考えらなくてはならないとヴァイツゼッカー博士は述べています。
ヴァイツゼッカー博士は、地球環境政策の第一人者で、現在は、国連環境計画が創設した「持続可能な資源管理に関する国際パネル」の共同議長を務めています。ドイツの連邦議会(下院)議員、環境委員会議長を歴任し、「エネルギー効率」の問題に対する権威です。
昨年3月には、東京で「地球環境問題と倫理」をテーマにシンポジウムを開催されています。
近著『ファクター5』では「これまで人類の科学技術が行ってきた挑戦は、拡大をめぐるものであった。しかし、私たちの世紀における科学技術の挑戦は、持続可能性をめぐるものになるだろう。私たちは、より少ない量のエネルギーを代謝回転させて、豊かで幸福になることを学ばなければならない」と述べています。

つまり、資源の生産性を現在の5倍に増加させることが可能であることを示しています。
これによって、資源のさらなる消費を無くして貧しい国々のさらなる発展をもたらすこと、また、豊かな国々においてはその国の経済の健全性を危機にさらすことなく、資源の消費を五分の一に抑えることを提唱しています。
そして、ヨーロッパ諸国やアジア諸国の大半は、現在、資源の輸入に大きく依存していますが、それらの諸国が、そうした資源をこれまでの五倍、効率的に活用することを学べばどうなるか。
おそらくそれらの諸国の経済は繁栄し、これまでのように全ての資源を無制限に利用することを主張する国々をしのぐに違いないと主張しています。

これまでの社会は資源を大量消費することで豊かさを追求してきたのに対して、資源の大量消費が豊かさの根本条件ではないというのが、『ファクター5』の提言です。
そういえば先日参加した大阪府本部のセミナー「低炭素・省エネルギー循環型社会の構築」の折にも、大阪府の担当職員は、これまでごみとして焼却されていたものをいかにして再生可能な資源として再生するか、そこに力点を置いて話をされていました。
有限の資源を奪い合い、使い尽くしていくような飽くなき貪欲に駆り立てられた現代社会の流れを変えるために、こうした発想の転換が不可欠だと思います。

2011年12月4日日曜日

ドキュメンタリー映画「いのちの林檎」

化学物質化敏捷を扱ったドキュメンタリー映画「いのちの林檎」の上映会に、行ってきました。
「いのちの林檎」

2時間にわたる長編映画で、化学物質化敏捷に苦しむ早苗さんという女性と、彼女が症状悪化により何も口にできなくなったときに唯一食べることができた無農薬のりんごを栽培している木村秋則さんを平行して構成された内容でした。
化学物質化敏捷患者の苦しんでいるありのままの姿と、その合間に挿入された木村秋則さんの飾らない笑顔がとても印象的でした。
木村秋則さんの「奇跡のりんご」に関しては、以前もブログで取り上げさせていただきました。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/t72ada/view/20101021

今回の上映会に同行したのは、いつもこの問題に対して一緒に丁寧に取り組んでくださる八重樫府議会議員と、興味があるので行ってみたいと言うことで川岡府議会議員も参加されました。
川岡府議は、無農薬栽培の農業に関心があり同行したみたいでしたが、映画の中で化学物質患者の苦しんでいる姿を見て、かなり驚いていたようでした。


映画終了後には監督との質問会もあり、場内から「最近では放射能汚染が大きな問題となっており、化学物質被害の問題が陰をひそめているように思うが・・・」との声があり、それに対して
「放射能は、それを否定して“反対”を叫ぶことができるが、科学物質の場合、その存在自体を否定することができない、というところに問題の根の深さがある。」
と言ったやり取りもありました。
確かに化学物質は、ふだんの生活の身の回りのいたるところに存在しており、その量が人体の許容量を超えたときに一気に発症して、それ以降、少量の化学物質に対しても敏感に反応してしまう病気なので、その原因である物質を排除することはできず、極力からだが反応しない場所を求めて逃げ回るか、じっと苦しみに耐えるかしか生きていく道がないのです。
映画の主人公の早苗さんも、実際にそういった生活をされています。

そして、そうした苦しみに加えて、社会の無認識がさらに患者を苦しめています。
普通の方が何気なく使っている、整髪料・芳香剤・煙草・農薬などが、この病気の患者にとっては例え少量でも猛毒となって襲い掛かり、生きるか死ぬかの苦しみとなってしまう・・・そうした恐怖と日々戦っておられます。
ですから、私にこの問題を相談されている方も、また今回の映画に登場される入江さんにも直接お会いしたこともあるのですが、ともに強く言っておられたのは「この病気のことを、もっと社会に知ってほしい!」でした。

科学が高度に発達し便利な世の中になりましたが、その陰でその反動で苦しんでいる人たちがいます。そこに同苦し寄り添っていける社会構築が求められています。
私達公明党の基本理念として、「人の苦しみの上に、自分の幸福を築いてはならない」といった考え方があります。
有害化学物質を極力使用しないとか、国における保険適用、エコチル検査の実施等々、少しずつではありますが状況改善に向けて取り組んでおり、さらにこれからも粘り強く取り組んでまいります。

2011年12月3日土曜日

読書感想―「官僚制批判の論理と心理」


「多くの人が福祉社会を志向しているにもかかわらず、それを支えるはずの行政への不信が蔓延している。」
帯に書いてあったこの一文を見て、思わず購入し一気に読んでしまいました。

読了した感想としては、大学の講義を聴いているような理論の展開で、それはそれで非常に楽しくて勉強になりました。
基本的に、政治思想の変遷の歴史を解説されています。トクヴィル・カフカ・ハーバーマス・シュミット・アーレントなどの歴史的政治学者の理論を辿り、ウェーバーの官僚制論を現在との関連として検討して結ばれています。
かなり専門的、学術的な内容なのですが、その一つ一つが現在の政治状況に対して多くの示唆を与えていることにとても驚きました。

そして理論の方向性としては、「官僚制は民主主義の基本的条件であり、擁護されなければならない」という姿勢です。
『もちろんデモクラシーの名のもとで「悪」としての官僚制を批判するという議論の仕方には、硬直化し、画一化しがちな行政の論理を揺るがせ、政治的な討論に導いてゆくという意義と可能性があることは事実である。しかしそうした議論の仕方は、デモクラシーが存続するために必要な条件すら、破壊してしまう危うさをも孕んでいるということも忘れてはならないのである。』(本文より)

また、不況が続いたりして官僚批判が進むと、カリスマ的な強いリーダーが望まれるようになる現象に対しては、以下のように分析しています。
『 カリスマ的支配とは、カリスマ、つまり非日常的な天与の資質、あるいはそうした資質をもっている人に対する大衆の情緒的な帰依を根拠にした支配である。このときの資質は、神がかり的な預言でも、卓越した弁論能力でもよく、その具体的な中身は、多様でありうる。ただカリスマは、被支配者からカリスマとして承認されることによってカリスマとなり、そうした承認が続くかぎりでのみカリスマである。したがって、カリスマは、戦争での勝利などというかたちで成果をのこし続けなければならず、また勝利が連続すればその威信は高まることになる。しかしそれができなくなると、その支配はきわめて容易に崩壊する。
懐疑的な検討を加えられると弱いという点では、カリスマ的な支配も伝統的支配と同じである。ただ、伝統が長期にわたる継続性によって一定の安定性をもつ一方で、カリスマはそうではないので、その支配の正当性はいっそう脆弱といわなければならない。カリスマとされる政治家はしばしば継続的かつ矢継ぎ早に「改革」を行おうとし、またスピードとサプライズを好む傾向をもつが、そこにはこうした事情がある。』

更には、最近の政治的主流となりつつある新自由主義(小さな政府)に関しては、次のように述べています。
『「後期資本主義国家」においては、市場原理という意昧での形式合理性は貫徹できず、何らかのかたちでの実質合理性(格差是正、「国土の均衡ある発展」、あるいはナショナル・インタレストといった観点)が侵入せざるをえない。こうしたなかで官僚制の正当性を問いただそうとする試みは、理論的に割り切れないがゆえの不満を慢性的に醸成する傾向にある。
政府は余計なことはしないほうがよいという新自由主義(「小さな政府」)は、こうした不満に応える有力な立場の一つである。あるいは別の言い方をすれば、こうした「正当性の危機」とそれに由来する不満は、新自由主義によって絡め取られやすい。』

そしてそうしたグローバル化への急激な傾斜に対し、トクヴィルの「すべてが新しい社会には新たな政治学が必要である。しかるに、そうした考慮がほとんどなされていない。われわれは急流の真っ只中にとり残され、岸辺になお見える残骸にかたくなに目を据えているうちに、流れにひぎこまれ、後ろ向きのまま深淵に向けて押し流されているのだ。」との言葉を引いて、
『かつてトクヴィルが急流に流されながらも、なんとか岸辺に目を向けようとしたように、あるいはウェーバーが非西欧の諸宗教に取り組んだように、人間の生の別様でもありうる可能性を確保しようと試みることは、少なくとも流れのスピードを遅らせ、時間をかせぎ、またわずかでも反転させるスペースをかせぐことにはなる。逆にそうした比較類型論を放棄するならば、勝ち馬にのろうとするインセンティヴを強化し、速度をアップさせてしまうことにもなりかねない。』と、結論付けされています。

この本は、本年9月に発刊されたものであり、3・11以降の日本の政治状況については論じられていますが、当然、この数日来の大阪で起こっている現象は予測すらされていません。
しかし、私の住む池田市においては12月に市長選も控えており、いまだに急流の渦中であります。こうした現象を面白おかしく眺めている方々もおられます。
しかし、一過性の現象に右往左往するだけでなく、これからの政治のあり方をしっかりと見据えてしっかりと議論をする必要があると私は思っています。ですから、今の私にとって、この本は非常に有益であり、勉強になりました。